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近代における政治上の諸制度ならびに術語は大體に於て西歐文化が生み出したのであり、それ故に西歐文化を形成した最も偉大な、唯一の力、即ちキリスト教の影響を強く受けたものである。特に、民主主義はキリスト教を除外しては考へられない。勿論、キリスト教は、その本質から言つて民主主義と結合してゐる譯ではなく、キリスト教徒のすべてが必ずしも民主主義者とならねばならぬといふ譯のものでもない。がしかし、事實において、民主主義的衝動はキリスト教の福音の霊感が歴史に具體化した、その一つのあらはれであるばかりでなく、ジャック・マリタンも言つてゐるやうに「キリスト教なくしては存續し得ない」ものなのである。
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新しい理念や偉大な改革を何一つ生み出さなかつた事を指摘する。その爲、自由主義はそれ自體として強いイデオロギーではあり得ず、非難する勢力を抑へる事が出來ない。
自由主義は安定した傳統と確固たる道徳的基準が確保されてゐる社會においてはじめて最も有用なものとなる。
自由は目的ではなく手段である。人間が自由に解放されてはじめて如何なる目的に自己の生涯を賭けるかといふ眞の問題が生じてくるのである。まことに自由は人間が責任ある道徳的行爲者なるが故にこそ、高い價値を持つのだ。
「自由とは何か」、「進歩は何處を目ざすか」といふ緊急の問題に決定的な解決を與へ得ぬ限り、幾度進歩や自由の題目をとなへた處で何の用をもなさぬないであらう。
「なぜうそをついたり、ものを盗んだりしてはいけないのか。」と尋ねると、「他人に迷惑をかけるからいけない。」と答える人が多い。この考えは、他人に迷惑をかけさえしなければ、かまわない、ということになる。果たしてこれでよいのであろうか。
いうまでもなく、他人に理由もなく迷惑をかけてはならない。だが、迷惑をかけるから悪いとか、迷惑にならないからしてもよい、などとはいえない。世の中には、他人に全然迷惑をかけないことでも、良心がそれを禁じ、したがって、もし、やれば罪になるというようなことがたくさんある。前に述べた心の中で犯す罪は、だれにも知られないし、だれにも迷惑をかけない。しかし、人に迷惑をかけなくても、良心がそのことを禁じている以上、それは、やってはならないことなのである。この場合、「迷惑になる」とか「迷惑にならない」とかいうようなことは問題にならない。
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……、罪というものは、他人に迷惑になるとか、ならないとかいうことに関係なく、「良心の命令に従っているかどうか」ということによって決る、……。
……。ここでは、良心が理性や自由意志と、どんな関係をもっているか、また、どんな働きをするかを、詳しく調べてみよう。
人間は何かをする前に、まず理性で考える。たとえば、自分のものでないお金が目についたとき理性は次のようにいう。
「おまえはいま、二つのことができる。一つはそのお金を取ること。もう一つはそれを取らないことだ。ところで、物を取るということは悪いことだよ。」と。
次に、この理性の判断は、良心に移される。良心はこう告げる。
「そのお金を取ってはいけない。盗みは避けなさい。」
そして、最後に意志が自由な立場から、「そのお金を盗め」「盗むな」の二つのうち一つを選び決定する。意志が盗むことを決定したなら、それは悪であり、罪となる。また、反対に、盗まないことに決定すれば、それは善である。良心は、理性が善であり義務であると判断したとき、常に例外なくそれを命じ、悪と判断されたとき、それを禁じる。
理性がときに善悪の判断を誤ることがあったとしても、良心は理性の示した判断に従って、理性が、善いとしたことを命じ、悪としたことを禁ずるものである。たとえ、どのようなときにも、私たちは良心の決定に従わなければならない。なぜなら、意志が良心に反する行いをしようと決めることは罪になるからである。
一。現在では信仰という言葉は、そのことはそうであると教会が教えているために、またそれが明確に理解できないため、それがそうであると単に考えるということを意味している。なぜなら私たちは信じて、疑わないようにと言われており、私たちには解らないと言うなら、それこそ正しく信じなくてはならない理由であると言われるからである。それで現今の信仰は知らないものを信じる信仰であって、盲目の信仰と言ってもよいものであり、それは誰かが言ったことが、他の誰かの中にも宿っているものであって、人のうわさを信じる信仰なのである。こうしたものは霊的な信仰ではないことは間もなく認められるであろう。
二。真の信仰は、そのことが真のものであるためにそうであると承認すること以外の何ものでもない。なぜなら真の信仰にいる者は、考えて『これは真である、だから私はそれを信じる』と言うからである。こうした人物は事柄の真理性を認めないなら、彼は『私にはそれが真であるか、どうかは解らない。それでまだわたしはそれを信じはしない。自分が知的に把握しないものを、自分はどうして信じることができよう。多分それは誤りであろう』と言うのである。
古典主義時代において、記号(シーニュ)を用いることは、もはやそれ以前の世紀におけるように、永遠に語られ語りなおされる言説(ディスクール)の原初的テクストを記号(シーニュ)のしたに再発見しようとこころみることではなく、自然をみずからの空間で展開させることを可能にする恣意的言語(ランガージュ)、自然の分析における最終的な項、そして自然の合成法則を、発見しようとつとめることである。知はもはや、古い<言葉(パロール)>を、それがかくされているかもしれぬ未知の場所から掘りおこすのではない。知はいまやひとつの言語(ラング)を創りださねばならないのであって、その言語(ラング)はよくできたもの---すなわち、分析と組みあわせとをおこなう、まことの計算言語(ラング)であることが必要なのだ。
SQL文はDBに飛ばす前にローカルでテストしてください。とか、比喩で語れるくらゐなんだから、意地惡しないで普通に應答してゐれば良いのに。
最終的解決はあまりにもあっけなかったので、この話は途中まで書きながらも仕上げるかどうか迷ったのだが、BSアンテナ関係など調べた情報は一般的に役に立つこともあるので、何とか書き上げた。
とにかく。BSアンテナには一つの通り道で電源を供給すればよくて、そのための分配器は全線電源供給型である必要は全く無いです。また将来性を考えて汎用的に電源が供給できるように配線しても無駄です。テレビなんて一度設置したらそんなに動かすものじゃないですし、電源の供給先を変えたら分配器の差込を変えればいいだけの話で…。こんな簡単なことに気づかず私は損しました…。
X11 の見た目と動作を Windows と同じくらい統一させることを 目的としているプロジェクトがあります。それがGNOMEでありKDEであると。
もう Windows がなくてもよくなるでしょう。んー。
使うアプリケーションの作りがWindowsの作法に則っていれば、Windowsはキーボードだけで操作できる。
森メディアの国内製造のオリジナルブランド製品は、2008年9月末で 製造終了となります。との話で、板は非道い事になつてゐるけれども、ドライヴとか、或は燒きプログラムとか、そつちの方も最う目茶苦茶で、何うしたものかと。Zulu-2も死亡してゐるし。
W3C Working Draft 26 July 2006のまゝ止つてゐるから、現時點ではあんまり堂々とは使へないみたいな感じがするけれども、「これはXHTML 2.0なるぞ」と威張らないで「ただのXML文書です」とか謙虚な事を言つてそれつぽい事(謎)をそれつぽく書いて(謎)そつと出せば(謎無)、誰も文句言はないで受容れて呉れる。筈。
なんで Windows の外見ってあんなにイモくさいンだろう . KDE とか Fluxbox とかのが格好いいと思うンだけど .